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第6回 『「所与」とは?「そもそも」を問うことの力 』
前回、変えられない過去や現状を「所与」として受け入れたうえで、自分の行動や工夫によって、できる限り6の成果を目指す―これまでの私の人生を支えてくれた「思考の型」の一つを紹介しました。
この型によって、「変えられないもの」という判断を下すことで、心理的にもそこにとどまったり囚われたりせず、未来の「変えられるもの」に力を向けることができました。特に、自分の選んだ道を肯定できるのはもちろんのこと、「取り返しのつかない」という表現がぴったりくるような事件の後などには、さっさと「くよくよせずに次へ行こう」と思えます。
一方で、これは積極的に「もう考えないようにする」型とも言え、ある意味で諦めることでもあります。後悔をはじめとするネガティブな感情を捨て去り、精神的な健康を維持するメリットは大きいのですが、別の見方をすれば思考停止です。
しかし、この「所与」と思っていることを「そもそも」と考え直すことも、とても重要です。
後悔したり、くよくよしたりするのではなく、未来をより根本的に変えたいとき。そのためには、自分の価値判断や、その根拠となる前提(社会制度など)は本当に正しいのか、と「そもそも」から考えることが有効です。そうすることで、自分を思い込みから解放し、より自由で広い世界につながります。
たとえば、仕事の仕方について。私はある頃まで「来るものは拒まず」の姿勢で学内外の仕事を引き受けてきました。私の専門性を評価していただいた上で依頼されているものなのだから、引き受けることが善であり当然だと考えていたためです。自分の休日や睡眠時間を削るだけ削って仕事をしていました。
やがて、年齢が上がるにつれて仕事の量が増えて抱えきれなくなったとき、初めて、仕事を断りました。その後も、体力の限界までは引き受けるものの、断る頻度は増えていき、そのたびに罪悪感や無能感が生じました。
しかし、「『来るものは拒まず』が所与であること」が「そもそも正しいのか」を考えてみると、そうではありませんでした。
それは仕事が少なければ成立しますが、増えれば限られたリソースをどう効果的に使うかという観点からの選択が必ず必要になります。また、自分が仕事を抱え込むことで、実はパフォーマンスが落ちていたり、自らがボトルネックとなったり、メンタルを病んだり、後進が育たなかったり、ということも生じます。
「来るものは拒まず」で良かった若い頃とは、一歩進んだ方針に切り替える必要があるのです。
ただ、「所与」を「そもそも」と疑うことは、なかなか難しいものです。自分が安定するために築いてきた考え方や行動様式を見直すことは、面倒だし怖いからです。おそらく、年齢を重ねるほど、難しくなります。
今まで自分自身でつくった「うまくいっていた」世界を捨てて、一歩踏み出すこと。
それは、普段の穏やかな成長というよりは、非連続な飛躍のチャンスでもあるのです。
このチャンスは、自らつくることは難しく、「追い込まれる」「切羽詰まる」「ピンチ」のときにやってくることが多いです。先の私の例も、もうどうにもならない状況になって「そもそも…」が始まりました。
なので、窮地に立った時はチャンスなのだ、と思うことにしています。
でも、もっと楽に「そもそも」を考えられる状況もあります。それは異質な環境に身を置くことや、自分とは異質な人とたくさん交わることです。自分の常識が簡単に覆され、世界が広がります。
そして、これは、ティシーの学習の三領域(The Three Zones of Learning: コンフォートゾーン・ストレッチゾーン・パニックゾーン)やヴィゴツキーの発達の最近接領域(Zone of Proximal Development)の理論と重なる部分があるように感じますね。


