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第4回 『進路と担任』
私は、三重県の桑名市で生まれ育ちました。
出身高校は三重県立桑名高校です。学校統合を経て今の姿になっていますが、2024年は創立から115年という歴史のある高校です。
今回は、この高校から大学への進学を決めるときの思考について取り上げてみようと思います。
前回のコラムで少し触れましたが、私は、桑名高校の理数科に在籍していました。入学すると、まもなく大学進学を意識させられるわけですが、私の家庭環境はというと、両親は大学に進学しておらず、また、私が一人目の子でしたので、大学は今一つイメージがつかめず遠い存在でした。
私の高校当時の「なりたい職業」は第1回コラムでいうと「輪島塗職人、キャビンアテンダント、通訳」あたりでした。これらについて少し説明すると、言うのも恥ずかしいですが、輪島塗職人は、「自分しかできないことを身につけて存在自体が価値のある存在になりたい」→「人間国宝になりたい」→「伝統的な技能を極める」→「輪島塗職人」という思考回路でした。しかし、これは調べるうちに、もう少し年を取ってから目指してもよいか、という結論に至り、次の職業に興味が移りました。続いた、キャビンアテンダントと通訳は、「一つを極める前に自分の世界を広げたい」→「世界を飛び回って知らないことをたくさん知りたい」→「物理的に移動する、異なる言語をしゃべる職業につきたい」という流れです。
そこで、大学進学よりも、まず、具体的には英語の習得を頑張ろうとしました。
当時、桑名高校にはアメリカへの1年間の交換留学制度というのがあり、2年次に応募しようと両親を説得するところまではこぎつけました。しかし、それは2年生の4月始まって早々に、担任に阻止されました。その担任とは前回コラムでも触れた「恩師」の一人でもあるのですが、「留学は大学行ってからにしろ」と一言。アメリカへの留学は、経験できることが多いがとにかく数学の力が落ちるので、日本の大学に進学し、アメリカの大学に留学するほうが長期的にみて得るものが多い、という説明でした。「確かに」と素直に納得した私は、あっさり留学を諦めました。
その後は、英語力の獲得が動機づけとなり、志望大学はぼんやりと東京外語大学としていました。ところが、夏の面談でまたもや担任から横やりがはいります。「栗田は東京外大より、東大のほうが入りやすいぞ」と一言。その心は、というと「東京外大は英語の比重がとても大きく、ずば抜けている必要がある。栗田はまんべんなく、どの教科もできるので寧ろ受験科目の多い大学が向いている」。
担任のこの言葉に私はとても大変驚いたことを今でも覚えています。さながら、某塾のコピーのように「え、なんで私が東大に?」です。
成績自体は、総合的には学年で3-5番目くらいにはいましたが、目指せる大学とは思っておらず、東京大は選択肢に入っていませんでした。環境的にも、別の先生からは私の志望大学を知り「お前は博打打ちか」とからかわれたこともありますし、親戚からは「お嫁に行けなくなるぞ」と説教もされました。
「田舎に住む女子が東大を目指す」にはこういう逆風があります。(幸い、私にとっては燃料になりましたが。)
一方、東京大学を選択肢として考えてみたとき、とても魅力に感じました。
それはなりたい職業についてまたもや揺らいでいたためです。キャビンアテンダントも通訳も、私にとっては世界を飛び回るための手段でありその職業そのものを魅力に感じるところまでは至っていませんでした。自分は「何を知りたいのか、どうありたいのか」というところが曖昧になっているなか、東京大学は理科一・二・三類、文科一・二・三類の6つしか入り口がなくて入学してから専門を決めればよい、つまり「人生の選択の先延ばし」ができる大学だったからです。そして、めでたく東京大学を進学先と定めたのでした。
ここで、あらためて進学先の決定について振り返ってみると、担任が、私の可能性を把握して選択肢の加除をしてくれたこと、そして、その選択肢の決定権は私にあったことに気づきます。おかげで、進学先の決定が揺らがずに最後まで頑張れたように思うのです。


